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和食だったのが良かったのか、心と体が落ち着いてきた今、環境に変化が起きたのが良かったのか、あるいは相手が同じ日本人だからという安心感からなのか。 普段の食事量は、一口二口食べるかどうかと聞いていたが、ベッドテーブルの上に置かれていた皿の料理は綺麗に完食されていた。 1品1品を小分けにして盛りつけていたとはいえ、それでもかなりの量を用意していたつもりだが、この様子では足りなかったのかもしれない。ショックで食欲がマヒしていただけで、お腹は空いていたのだろうと思いながら、空になった皿をカートに移し、テーブルの上を拭いた。 「咲世子さん、お願いがあるんですが」 一通り片付け終わった頃を見計らって、スザクは声をかけた。 「何でございましょうか」 「えっと、洗面所に連れて行ってくれませんか?」 スザクは多少躊躇い、恥ずかしそうに言った。 この階の洗面所は、部屋を出て廊下を歩いた先にある。 ホテルのように一部屋一部屋にあるわけではないため、歩いてその場所まで行かなければならない。古いこの建物はバリアフリーでは無い為、至る所に段差もあり、杖だけで歩くことに慣れないスザクは、いつもはアーニャに誘導されて移動していた。 一人手探りで室内を歩き回ることもあるのだが、杖の感覚だけでは先に何があるか解らず、いまだに部屋から外に出る事が出来なかった。 普段のスザクであれば、多少不自由があっても頻繁に行く場所ぐらい自力でどうにか出来ただろう。自分は日本男児なのだからと、女性の手を借りるのを拒む可能性の方が高い。だが、精神的に衰弱し、自分を見失って殻に閉じこもってしまった今のスザクは、そんな事さえもできなくなっていた。 「かしこまりました。ではスザク様、杖をお取りください」 ベッドテーブルを退け、咲世子は声をかけた。 杖を自分で取れ。 小夜子から帰ってきた言葉に、スザクは困惑した。 杖はいつもアーニャが手渡してくれていたため、何処にあるかは解らない。暗闇の中、少し手を伸ばして探ってみるが空を掴むばかりでやはり見つからない。どうしようかと途方に暮れていると咲世子は助け舟を出した。 「そこからですと、右手を9時の方向に伸ばした場所にサイドテーブルがあります。そのテーブルと、ベッドの間に杖があります」 暗闇の中、9時の方向へと右手をのばすと、固いものに指が当たった。触るとそれは確かにサイドテーブルで、そのテーブルの淵をなぞるように手を移動させると、杖が立てかけられていた。いや、何か筒のようなものに入れられて固定されている。ゆっくりと引きあげると筒から外れ、ようやく杖を手にした。 「スザク様、杖は必ずそこにおもどしください。何処に杖があるか、ご自分でも把握し、手に取れるよう練習されるといいでしょう」 これは感覚で覚えてしまえばいいので、スザク様なら簡単でしょう。と、咲世子は言った。ベッドの位置も、サイドテーブルの位置も変わらない。動かすことのない家具だ。 暗闇の中でも、自分の位置を探る方法はある。誰の手も借りずに、目的のものを手にする事は可能なのだという当たり前のことを、スザクに教える。 この、自分では何もできないスザクは、アーニャとジェレミアが気を遣いすぎて、手を出し過ぎていた結果なのだ。 「履物はサイドテーブルの前に」 目が見えないため、何処に何かを置くならば目印となるものの傍に置く。 言われた場所を探ってみると、そこにはスリッパらしきものが置かれていた。 スザクは部屋を歩き回る時、素足だった。 絨毯が敷かれ危険なものもないし、部屋を出る時はアーニャが用意してくれていた。 だから、こんなことでさえ今まで自分では出来なかったのだ。 スザクが立ち上ったのを確認すると、咲世子は再び口を開いた。 「スザク様、まずは歩数を数えて部屋の大きさや距離を体で覚えましょう」 スザクならば距離を感覚で覚え、杖なしで屋敷内を歩き回る事は可能だと咲世子は言った。実際にナナリーも車いすを一人で操作し、危なげなく室内を動き回っていた姿をスザクも見ている。自分の足よりも距離を測りづらいだろう車いすでも、彼女は動き回っていたのだ。 この暗闇の中、目印となる何かが無ければ動けないと勝手に思い込み、萎縮していた脳が、答えを見つけたことで緊張を解いたように感じられた。 日常生活に必要な行動ぐらい、一人でやれるようになりたい。ナナリーだって、目と足が不自由でも自分でできる事はしていたはずだ。歩ける自分は、ナナリーよりももっと多くの事が出来る。そんな気持ちが芽生え始めた。 「では、まずはそのまま前にお進みください。杖を手に持ち周りを探る様に歩けば、前方に壁がある事がわかります」 暗闇の中、何があるか解らない場所に足を踏み出すのは怖いものだ。 目を閉じて歩くのとはわけが違う。 この両目は、光さえ感じることはないのだから。 ゆっくりと一歩一歩足を踏み出し、咲世子に見守られながら部屋を後にした。無駄に大きな屋敷だ。長い廊下を時間をかけて進み、ようやくスザクが洗面所に入ったので、その扉の前で出てくるのを待っていると、C.C.がやってきた。 「なんだ、枢木は一人でトイレにも行けなかったのか」 想像以上に甘えん坊だな。 楽しげな魔女の声はスザクの耳にも届き、扉の向こうから不愉快そうに彼女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。そういえば、スザクはC.C.が来ている事を知らなかったのだ。 「C.C.様」 今はからかっていい時ではなという思いを込め名を呼ぶと、C.C.は肩をすくめた。 |